ここに載せるのは、震災で家と病院を失い、ご両親と弟御の奥様を亡くした、医師である友人から届いたメールです。

メールを読んで心から感動し、今さらながら被災地のために少しでも力になれるよう頑張りたいと気持ちを新たにしました。この感動と思いを皆様にも伝えたく、本人から掲載許可を得てここに全文を転載します。

※個人情報に係わる部分は伏字にし、改行のみ修正しました。


△△同期の皆さんへ
 
釜石の◇◇です。

昨日で、多くの尊い命を奪った未曾有の大津波から一年が過ぎましたが、この一年間、暖かいご声援とご支援をいただき本当に有難うございました。
昨日は実家のあった場所に、父が好きだった日本酒、母が好きだった饅頭、弟の妻の好きだったチョコレート、末っ子が好きだったアンパンマンのお菓子と花を伴えてきました。

昨年の3月11日、津波に追いかけられながら、患者さん、職員、小中学生と命からがら高台へ逃げたこと。夕方、薄暗く小雪が散らつく中で行った心肺蘇生。そして、ご遺体の搬送。その日の夜、鵜住居の住民の方のお宅に泊めていただいたこと。

12日朝、亡くなったわが子を瓦礫の中から探し出してきた父親の前での死亡確認。住民の方と一丸となりお年寄りを市内へ搬送したこと。ラジオを聞きながら、余震が続く中で職員と過ごした旧釜石一中での不安な一夜。

13日朝、診療所の再開を誓って職員と別れたこと。避難所へ次々に避難してくる住民の対応をした13日と14日。

早朝から山田町の避難所で薬を配って歩いた15日。

何かしなければならないと思いながらも何もできずに自分の無力さを痛感した16日と17日。

わずかな情報を頼りに避難所で薬を配って歩いた18日から20日。空腹の中、鵜住居の避難所で菓子パンと焼きカレイを御馳走になったこと。

診療再開のために雑巾がけをした21日。

瓦礫と不確実な情報ばかりが交錯する中、確かな話題を作りたい一心で職員3人と22日に再開した診療所。行方不明の両親を探しに行かなかったことへの自責の念。

今でも震災後の10日間は頭の中でしっかりと蘇ってきます。震災直後は事態の深刻さを頭の中で整理できないままに、ただただ前に進まなければなりませんでした。矢継ぎ早の慌ただしさの中、疲労で行き詰まりを感じていたときに、みんなからいただいたメールや編集しておくっていただいた写真には本当に励まされました。また、震災の後、多くの人と出会い、人の優しさや力強さを感じる中で、人として大切なことを考え直し、生かされていることの意義を見つめなおすことができました。

震災の日、南三陸町の役場の若い女性職員は最後まで防災無線で町民の避難を叫び続け命を落としました。私たちと一緒に避難をした中学生は「人は足ではなく、手を引っ張る生き物」であることを教えてくれました。そして、気仙沼で両親を失った高校生は「今回の災害は天災です。しかし、僕は天を恨みません。」という言葉を残してくれました。

今回の震災で亡くなられた多くの人たちは、残された私たちにどのように言葉を投げかけているのでしょうか。
健康な体があり、普通の生活ができることに幸せを感じながら「一日一生」の精神で明るく前に進んでいくことは、今回の大津波でお亡くなりになられた方々への最大の弔いだと思っています。

これからも頑張りますので、温かく見守っていただければと存じます。

平成24年3月12日

釜石市 ◇◇ ◇◇ 拝

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